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お父さんの思い出

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将来を憂いてウンウン呻きながら、貸してもらったマンガ本を貪るように読み散らかして孤独感を拭い去ろうともがいているうちに、2016年6月第3週の日曜日、今年の父の日が終わっていた。
 
実家に電話したり、プレゼントを贈ったり、食事に誘ったり、それらしいことを何もしなかった。
したことがないのだった。今まで一度も。
 
 
私には父親がいないのだけれど、もう今の世の中そんなに珍しいことでもないらしい。
厳密に言えば戸籍上にはいるんだけど、私が胎児だった頃に両親は離婚して、この世に生を享けたとき既に父親の姿は視界になかった。
 
だからどこで父親という概念を覚えたのか、ちょっと不思議だ。絵本だったかもしれないし、ジブリのビデオだったかもしれない。教育テレビのおうただったかもしれないし、あるいは街中で見かける親子だったかもしれない。でもどこで覚えたにしろ、その存在に違和感を抱いたことはなかった。
父親というものは、私以外の多くの子どもにいて、私にはいないもの。私以外の多くの子どもには兄弟や姉妹がいる。私以外の多くの子どもは毎週末宗教施設に通うことはしないし、私以外の多くの子どもは親の職業でバカにされることもない。私以外の多くの子どもは、マンガもゲームもアニメも自由に与えられていた。私以外の多くの子どもの家では、家族同士が罵詈雑言を浴びせたり物を投げたり相手の頭髪を掴んで引き摺ったりするようなケンカもしないらしかった。
私以外の多くの子どもと私は、異なるところがいくつもあって、でもどれも些細なことで、父親がいないこともそれらと同じようなことと、ずっと思ってきた。
 
 
「お父さんがいなくて寂しかったでしょう」と問われることがある。例えば自分の母から。
「ごめんね」と言われたりもする。
きっと罪悪感があるのだろう。持つ必要のない罪悪感。おそらく、抱き続けることで安心している罪悪感。
「お父さんがいないから◯◯だ」などというありきたりな泣き言を私は、思ったことも口に出したことも今まで一度だってないはずだ。
自分の罪悪感を紛らわすために、娘をそんな稚拙な人間と都合よく解釈しないでほしいと思う。
 
まだ物心も曖昧な頃に何度か、母と、私と、父親ではない知らない男性と遊びに行った記憶がある。
動物園や、スケート場だった気がする。母と、その男性に手を繋がれて、私は怯えながらはしゃいでいた。
母は優しかった。男性も、笑顔だったような気がする。肩車をしてもらったかもしれない。気遣わしげに、名前を呼んでもらったかもしれない。
その記憶は、いつも目もくらむような太陽の光とともに思い出される。
 
ある日の夕方、強烈な西日が差し込む狭い自室で母は泣いていた。
静かに言った。
「あの人とはもう会わないからね」
私はなんで?と問うこともできずに頷いた。
どんどん陰ってゆく部屋でこのまま、永遠に母と二人ぼっちなのだと思った。
 
何年か経って祖母にその時のことを訊ねたら、やっと知らされた理由に心底ギョッとした。
「信仰している宗教を反対されたから」というものだった。
信仰のために安寧を棄てた、高潔なる母。
 
 
およそ26年前、夫との離婚調停に消耗しているさなか妊娠が発覚した若い女性は精神を病んだ。当然である。
その惨状を哀れんだ裏向かいの住人が、その女性の母親を宗教へと招き入れた。
女性の父親も、妊婦であった女性自身も入信し、必死な信仰と祈りの甲斐あって健康な女の子が生まれた。
その女の子ももちろん、胎児の時分から入信書に名前が書かれた、敬虔な信徒であった。
信仰はやがて家族が幸福に生きる”手段”ではなく、幸福に生きる”意味”となった。
 
 
父親の存在の有無に関わらず、私はずっと寂しかったと思う。
 
祖父も祖母も70を過ぎてもなお昼夜問わず働いていたけれど、それは健康を与えてくださる教祖様のおかげだった。
母は家業も手伝いながら宗教施設で働いていたけれど、それは身近で徳を積ませていただける、教祖様のお導きだった。
私は学校中の嫌われ者なのに学業成績だけはすこぶるよかったけれど、それは私に力を貸してくださる、教祖様の御心だった。
週末は必ず車に乗って家族で出かけたけれど、それは教祖様に日頃のお礼を述べて、忠誠を誓うためだった。
そして、それ以外の日常は、家族はずっと、ずっとずっと果てしなく延々と、喧嘩をしていた。
 
家族の喧嘩が始まると私はいつも、泣きながら布団に潜り込んでお経を唱えていた。
家族が喧嘩しませんように。怒鳴り声が隣の家まで聞こえませんように。おじいちゃんがおばあちゃんを叩きませんように。おかあさんの激昂が私に飛び火して、足音荒く階段を駆け昇ってきませんように。
お経を唱えて、教祖様に祈り続けて、だんだん包まれているかのように心地よくなってきて、いつしか静まりかえった家の片隅で眠っていた。
そんな夜が、数えきれないほどあった。
 
家族の時間やお金や情熱や生きる目的がすべて向けられてしまう、信仰が憎かった。
どれだけ修行を積んで我慢を重ねても、フツウの家族になることすら許してくれない、信仰が憎かった。
だけれども一方で、信仰に触れているときの穏やかで温かい家族が私は好きだった。
安心感をもたらしてくださる教祖様のことが、好きだった。
 
 
地元の駅前にあったジャスコは、今はもうない。十年以上前に女性の飛び降り自殺があってから、いつの間にか潰れてしまった。
薄暗い催事場では、子どもが描いた絵の展覧会がよく催されていた。
読書感想画や、防犯ポスターや、母の日、父の日、敬老の日の似顔絵。
何度か出品して賞をもらった。1度だけ、父の日の似顔絵コンテストにも出品したことがある。
 
「おとうさん いつもありがとう」と書かれている画用紙に大きく描いた。
白髪頭に、金縁の大きな眼鏡をかけている。
知的で優しそうな柔らかい笑顔で、仕立てのよいスーツを着ている。
 
何を思って描いたのか、今では覚えていない。
家族の機嫌を取ろうと思ったのかもしれないし、ほんとうに描きたくなったのかもしれない。
 
描いたのはもちろん、戸籍上の父でもなく、祖父でもない。
当時すでに存命でなく、写真と映像でしか見たことのなかった教祖様を、父の日の似顔絵に私は描いた。
 
 
私と家族をいつどんなときにも暖かく見守り、律し、支え続けてくれていると”私が信じてきた”存在こそが、私にとっては唯一であり、絶対的な父親だったのだと今になって思う。
幼い子どもが抱くケースがあるとされる「空想の友人(イマジナリーフレンド)」に似ているかもしれない。
教祖様であるところの「イマジナリーファーザー」は、もしかしたら本当に、私を見守っていてくれたかもしれない。けれども当たり前なことに、一度も名前を呼んではくれなかったし、抱きしめてもくれなかった。
 
18になって地元を離れると同時に、その頃の私にとってはもはやボロ布のように纏わり付くだけになっていた信仰を捨てた。
そのときに私はおそらく、教祖様からの御心に背くことで、ずっと偶像のように抱いていた「私の父親」をも捨ててしまったのだろうと思う。
 
本当に父親不在の自分に気がつき始めたのはその後、ハタチも越えた頃からのような気がする。
お父さんは、私以外の多くの人にいて、私にいない。
 
ときどき父親か、そうでない誰かかもしれないけれど、誰かの不在が無性に寂しくなり、苦しくなって、崖縁に追い詰められたように思われるときがあるのは、子どもみたいにしゃがんで声を上げて泣いてしまいたくなるときがあるのは、いまさらになって抱き上げてくれる大きな腕を探しているのかもしれない。
 
まさにそんな夜だったから思い出した。
 
将来を憂いてウンウン呻きながら、貸してもらったマンガ本を貪るように読み散らかして孤独感を拭い去ろうともがいているうちに、2016年6月第3週の日曜日、今年の父の日が終わっていた。